プロフィール -この地獄のストレス社会から抜け出すために-
まだ6歳になったばかりの僕にとって、その光景はあまりにもショックでした。
ある日、僕が眠たい目をこすりながら台所へ向かうと仕事に出かけようとする父とそれを見送る母が玄関で何かを話し合っていました。
数分間口論が続き最後に父が一言を告げると、母は泣き崩れ俯き、声を上げて泣き出しました。
母の姿を尻目に振り切るように仕事に出かける父。
僕は、それを見てただ戸惑うばかりでしたがただならぬ事の重大さを感じて母のそばに駆け寄り
「僕がそばにいるよ。」と声をかけると、母は僕の体を強く抱きしめました。
まさか、これが僕の人生を大きく変える出来事の前触れだったとはこの時の僕は知る由もありませんでした。
幼少期~小学生時代
1986年の5月に岩手県盛岡市で三人兄弟の末っ子として僕は生まれました。
経済面では中の下くらいの平凡な家庭。
ですが僕が11歳の頃、父親の仕事が上手くいかなくなった事をきっかけに始末のつかないお金の問題が浮上し両親は離婚する事になったのです。
その後、母親と僕を含めた三人兄弟で暮らし始めました。
父が居なくなったこの頃から少しずつ経済面で苦しい生活になり、専業主婦だった母も働きに出るようになりました。
大黒柱が居ない状況。それでも生活は順調に回っていました。
ですがある日、家計を支えていた兄が仕事を突然辞めてしまいます。
家計が大変な時に仕事を辞めた兄に母は激怒しました。
その後、母と兄のケンカの絶えない日々が続くようになりました。
この頃、僕の精神状態は非常に苦しく家に居ても生きた心地がしないほどでした。
家に帰れば口論と喧嘩。
小学生の僕にとって一般的な普通の家庭と違う疎外感と家族とのストレスに苛まれていました。
この時、「将来のためにしっかり勉強をしていないと自分もお金の事で苦しむ事になる」と悟るのです。
それと同時に自分は、子供にはこういった苦しい生活を絶対にさせないと誓いました。
その後、兄は長年夢だった音楽の道に進む為単身大阪へと行こうと決意します。
ですが、苦しい生活の中「どうぞ、行ってらっしゃい。」と後押ししてあげられるわけではありません。
兄は母の言葉を遮り、啖呵を切って家を出ていきました。
大阪行きの飛行機代しか無い。そんな状況での兄の出発でした。
ですが兄がいなくなった事で、母と兄の喧嘩にもようやく終止符が打たれ、僕にとっては心が救われるような出来事だったのです。
口争から解放された中学生時代
中学校に入れば、新しい友達が出来たり、恋をする事もありました。
友達と遊ぶのも気楽でしたし、学校帰りに友達の家に寄って、気に入ったロックバンドの音楽を聴いたりして遊ぶのが趣味の普通の中学生でした。
音楽は良いものですね。当時、熱心に聴き入っていたのはモンゴル800というロックバンド。
彼らの音楽と熱いメッセージを聞くと、過去の事で下向きになっていた気持ちが前向きになれました。
モンパチには本当に感謝です。
この頃は将来の自分の姿なんて、考えられませんでしたし打ち込める物も特に見つかりませんでしたね。
せいぜい部活のハンドボールを3年間続けていたくらいです。
ですが、そんな普通の生活こそが僕が求めていたものでした。
友達との遊びは優先してきました。友達と過ごす時間が何よりも楽しいひと時だったからです。中学時代にある記憶は、ほとんどが遊びですね笑
そのおかげで大人になった今も様々な中学校時代の友達と連絡が取れて相談したり遊んだり出来るんだと思います。
辛い生活を忘れさせてくれたのは、友達の存在があったからです。
友達は僕の財産ですね。
音楽に打ち込む高校生時代
中学生活を経て、成績も並々で工業高校に進学をしました。
この頃、中学校時代の気の合う友達同士でバンド活動に勤しむようになります。
高校に行きながら学校帰りにスタジオ練習に通い、月3本くらいライブをしていました。
この時に、人前で話したり自分を表現して、人に音楽や感情等を伝える楽しさと難しさを経験してきました。
しかし、バンドの歴が長くなるにつれて、次第にプロのバンドの方と対バンする機会に恵まれ音楽の仕事の難しさを知り、将来的に音楽の仕事をしていくか一般の仕事に就くか考えるようになります。
この時、僕が密かに抱いていた思いが(音楽で食べていきたい・・・。)
高校3年になって、先生に進路の事を聞かれても、音楽の道に進むか進学か就職か何も決められず家族と相談することにしました。
ある日、母からの紹介で歯科関係の仕事を勧められ、その資格を取得するために専門学校に通わないかと提案されたのです。
僕も専門学校に通えばまたバンド活動が出来ると思い、進学を決意。
この時の僕には、音楽だけでやっていくという決意をする事は出来ませんでした。
音楽の道に進むという事は、母を不安にさせるだけだと思ったからです。
しかし、この自然の流れに身を任せた決断が、後の悲劇を生みます。
専門学生時代
専門学生の頃は、働いている人よりも時間があったので再びバンド活動に勤しんでいました。
何も考えないで、音楽ばかりに比重を置く日々。
ある日、友達が僕の家に遊びに来ました。
小学校からの付き合いで少し小太りな彼は、和柄のシャツを羽織り、ぎらつく色付き眼鏡をかけたいかつい風貌で「お邪魔しまーす。」と靴を脱ぎながら部屋へと上がってきます。
いつものように、僕の部屋で近況とかを話しながら時間を潰していました。しばらくして、話題が尽きたころにふと友達が「パチンコ行こうよ。」と一言。
「え、俺やったことないよ?」というと、「大丈夫、大丈夫。座ってハンドル回してればいいだけだから。」
この友達の影響で、この頃からパチンコなどもし始めるように。
たいして、お金も持っていないのに有り金全てをパチンコに投資したりと、まず客側が勝てる仕組みにできていないパチンコに一喜一憂する日々も送っていました。
初めて、何もせずともお金を手にした甘い経験を忘れられず、暇を見つけては足を運ぶも勝てない日々が続くようになったのです。
その後、パチンコのシステムや経営についての仕組みを研究。分析していくにつれて、お客さん側が勝てたとしても月に平均にして十数万円という一般社会人としては初任給とほぼ変わりない収入しか得られないということに結論づきました。
しかも社会的には不安定。その収入が一生安定して得られるかというと、そうではないです。
つまり、パチンコを打つよりも普通に仕事をしてスキルを磨いていったほうが得られる収入は大きくなると知った。
このころから、世の中は知識を持っている方が有利に物事を進められるのだということを悟った。
就職してから
そして専門学校を卒業して歯科の資格を取得後、大阪の歯科技工の会社に就職しました。
ですが、いざ会社で働いてみたら、ゾッとしました。
毎日毎日、粉塵だらけの環境で朝から晩まで仕事をして、金額が超毎月毎月変動する給料をもらう日々。(成果給や残業代がついたりつかなかったりで最高で7万円ほど額が変わります。)
「これが社会の厳しさか・・・。」
社会人生活の辛さを身をもって体験することになりました。
会社の内情を深く知っていくにつれて
僕が社会人生活に対して抱いていた理想は虚しくも音を立てて崩れていきます。
21歳から、僕は今の会社で働き始めました。歯科技工業界では大手の会社だったし会社のシステムもしっかりしていたので、安定した生活を送れると思っていました。
新人時代は朝8時半から19時まで働いていたのですが、技工業界は夜12時を回ることもザラなので、これなら続けられるだろうと。
でも夜19時になって周りの先輩を見ても一向に帰る気配がありません。
19時は製造した商品を発送する時間で作業のピークです。
帰るどころかみんな締切に追われて血眼になってました。
結局先輩達が帰れるのは夜23時くらいだそうです。
しかも給料も安いんですよね。残業しないと生活費でほとんど無くなる金額です。
だからみんな少しでも残業して生活費の足しにしようとしていました。
給料は安くて拘束時間も朝から夜中まで。
更には粉塵だらけの環境でずっと働き続けなければいけないと思うと考えるのも嫌になります。
なぜ、これだけみんな頑張って働いているのか僕にはあまり理解できませんでした。
締切時間が迫ってくるとプレッシャーで胃がキリキリと痛み出してくるし、
時間が無い中で品質を求められるストレスは尋常ではないです。
2年目になって仕事に慣れた頃には僕は会社員生活に何の魅力も感じなくなっていました。
たった一度しかない人生を、他人の会社の為に削って幸せだろうか?と、いつも自問自答していました。会社員として定年まで働くのが普通の人生なのでしょうが、僕はそれを受け入れられなかったんです。
この先管理職になれば「部下を先に帰さないと帰れない」という暗黙のルールが課せられますし、役職者は休みの日にも
仕事に駆り出される機会が増えます。
そうなれば、当然更に時間は奪われるでしょう。
会社からすれば個人の意思や意見よりも、何より組織の部品である事が求められます。
僕はそんな会社という沼に足を取られ
人生を吸い尽くされていくのが怖かったです。
もちろん定年まで頑張ればその後は自由になれます。
でも、その時僕はお爺さんで時間の自由はあっても体の自由がきかないと思います。
しかも僕達世代がもらえる少額年金だけで医療費や生活費をまかなえるか?というのも考えものです。
実際、試算上では昭和60年生まれの男性は2500万円の損をする計算になるそうですし、最近の年金問題をニュースで見てると、あまり大きな期待は持てません。
会社の先輩に話を聞くと、「どこの会社も不景気で大変や。こんな時代に生活できるだけマシだ」とか「下を見て生きていかなあかんで。」と眉間にしわを寄せながら言っていました。
会社員は夢を見てはいけないのでしょうか?笑
僕はこのまま会社に居続けたら必ず後悔すると確信しました。
ネットビジネスとの出会い
焦燥感にかられ打開策を探していたある時、ネットで「せどり」という仕事を見つけました。
内容を知って、これなら自分でも出来そうだ!と思い、さっそく行動に移しました。
ただ、ネットビジネスをする以前に当時の僕はyou tubeを見るのがやっとのパソコンど素人だったのです。
ブログの作り方も分からなワードもエクセルも使えない。
操作が遅くて正直タイピングさえままならない状況でした。
ですが、嬉しい事にせどりの作業にはパソコンのスキルはあまり関係なかったのです。
アマゾンでの作業は説明文などの文章を打ち込んだりするくらいで、パソコンが苦手でも出来ます。
つまりせどりで稼ぐために大事なのはパソコン知識よりも商品知識。
どれくらい売れる商品を知っているか?またどれくらい利益を出せる在庫を仕入れできるかの方が大事なんです。
その後の生活は平日は本業。週末はブックオフに仕入れに行くようになりました。
最初はとにかく価格差のある本やCDを仕入れまくってました。
仕入れれば大体は売れるだろうと思ってましたから荒い仕入れをしていました。汗
でもすぐに売れなくてどんどん不良在庫を作ってしまいました。
普通に挫折
「せっかくの休日に頑張ったのにお金にならないなんて」今、考えたらあほです。
利益が少しでも取れると思ったら、売れもしない商品ばかり仕入れていましたからね(汗)
そんな失敗をした結果、お金を稼ぐにはもっと勉強しないといけないなと感じました。
でも勉強しませんでした(笑)
教材への投資なんてしません。
なぜか?
お金がもったいないからです。
ただでさえ、情報商材なんて胡散臭さの固まりみたいなものにわざわざお金を払おうとは思いませんでした。
お金を払う人の方がどうかしています。
しかも、1万円を超えたりするものもごろごろありますし、書店に行けば数千円で有益な知識が手に入ります。
高値の本でさえ立ち読みして確認出来るのに、中身の見れない情報商材を買うなんて狂気の沙汰です。
とは、いいつつも。。。
あまりにも利益が出せず、毎日アマゾンの画面を見ていても売上げが変わらないことにしびれを切らすようになっていました。
でも・・・。
まぁ、いっか・・・。
だんだん、やる気も失せてきて、なんか別に稼ぐ方法ないかなあと思うようになっていました。
結局、時々アマゾンの画面を見る程度で仕入れにも行かなくなりました。
そんな利益の生まれないせどりの日々を送ること。
1年。
その間もネットビジネスとしてメルマガやブログを始めていましたが全くお金は生まれませんでした汗(俺はいったい、何をやっているんだ。。。)
これだけチャレンジしてみたけど、全く稼げていない現実を突きつけられ悲しいどころか自分自身にあきれてしまいました。
(そろそろ、マジでやらなきゃ。。。)
イメージは、はっきり見えている。お金を稼いでいるイメージは。
でも、現実は違う。
あの時、会社員でいることに恐怖を覚えて絶対にやめるという決意をしたことが自分のプレッシャーへと変化しました。
(お前には、できない)
(そんな簡単に稼げるなら、みんなやっている)
不安な気持ちが心の隅々まで埋め尽くします。
どうしたらいいんだろ。
やっぱ、俺には無理か・・・?
でも、このまま社畜は嫌だ・・・。
利益が出せずもがいていたある日、ネットでせどりの情報商材を見つけました。
セールスレターを見たら胡散臭く感じたので、本物かどうか知るために購入者のレビューをひたすら調べまくりました。
何人も何人も。
出来るだけたくさんの意見を取り入れました。
損はしたくないですからね。値段もそこそこするので。
3日くらい悩んだ結果、結局買わなければ分からないと思い意を決して購入することにしました。
清水の舞台から飛び降りました。
分かってしまえばこっちのもの
「もっと早く買っとけばよかった!」
懇切丁寧なまともな教材でした。商品の仕入れ方、利益の出し方、内容の大部分が痒い所に手が届く情報ばかりでした。
知識にお金を投資すればその分の見返りが来ることを学びました。
僕の視界一面を覆っていた霧が晴れていきました。(※注意 大袈裟に表現しています(笑))
それからですね。僕がせどりで利益を出せるようになったのは。
最初は数万円だった売り上げが徐々に増え、今では月に30万円を超えるほどになりました。利益は10万円を超えるくらい。
会社で働かなければまともなお金は稼げないと思っていましたが意外といけるものなんですね。
ある時いつも通り会社で働いていたら営業部の人が来て僕達世代の社員が社内で昇進し始めているとニヤニヤしながら話していました。
それを傍で聞いていた上司は僕に対して
「君も家族がおるんやし、平社員のままじゃなく早く主任にならなあかんで!」と、鋭い目つきで言い放ちました。
うちの会社は主任になると給料が5000円アップします。プラス5000円で生活が何か変わるでしょうか。
僕は、そう言われて「はい!」と勢いよく返事をし、苦笑しました。
「大丈夫です!!副業してますから!!」とは言えないですもんね。笑
会社員って大変です。給料も少ないし拘束時間も長い。
それなら自分でお金を生み出すほうが5倍は簡単です。
昇進とか出世を夢見て就職した21歳の頃に比べて、がらりと自分の価値観が変わったことに大きな成長を感じました。
僕達が会社で給料を増やそうと思ったら、残業をしたり仕事を効率よくこなして給料アップを目指すと思います。
でも給料を月に5万円増やそうと思ったらどれ程の作業をこなす必要があるでしょうか?
毎日残業して、家族に「こんな時間まで仕事だったの?」と心配され、それでも「会社の業績の為に。」と、人間関係にも嫌な顔一つせず汗水たらして取り組んでも難しい金額です。
会社も会社としての利益を上げたいので、経営上人件費などのかさむ固定費は抑えたいですからね。
でも、僕達の時代にはインターネットが存在します。ネットのおかげで僕達一般人が大きなお金を稼げる可能性が大きく広がりました。
20代や30代の人の中には、ネット収入だけで生活している人も増えてますし、副業で月に5万円以上を稼ぐ人もごろごろいます。
なぜ、そんなことが可能なのか?というと、ネットは自宅にいながら全国のユーザーと繋がれる為、一度に大勢の人に価値を提供することができるからですね。
例えばこのメルマガというツールもたくさんの人に情報発信できますし、せどりの場合はネットを通じて全国のお客さんに商品を販売できます。
つまり、たった一人でビジネスをしていたとしても一度に大勢の人に価値を提供できるため大きな収入を作りやすいのです。
資金も権力もない僕達一般人が会社に縛られずに自分で稼ぐ力を身につけ、自由な人生を楽しみたいと思ったらネットビジネスをするべきです。
僕には今、ある一つの目標があります。
それは、お金の不自由がなく時間の制約にも縛られない経済的自由を手にすることです。
人生は一度きりです。
そんな貴重な人生をお金の心配ばかりして、会社のためややりたくないことに縛られるなんて悲しすぎます。
それよりもお金も時間もたくさんあって、自分のやりたいことに思う存分挑戦できる人生を楽しみたくないですか?
そのために僕達はネットビジネスに挑戦するべきだと思います。
数あるネットビジネスの中でもおすすめなのが「せどり」です。
せどりについてはこちらの講座で詳しく解説しています。